主な活動  戦跡調査と未帰還兵捜索

戦史館会員による戦跡調査や未帰還兵捜索、厚労省から委託された未送還遺骨情報収集事業を通じて、1999年以降、インドネシアから1568柱の戦没者遺骨が帰還しました。

目次

現地写真

なぜ民間の戦史館が ? 会員が? 未帰還兵の捜索を?

インドネシア共和国、西部ニューギニア方面(旧イリアンジャヤ州、現パプア州)の遺骨帰還は、1952年に始まりましたが、分離独立運動や、戦後賠償問題、対日感情の悪化など、様々な問題がからんだことで、1975年、厚生省は遺骨収集の概了宣言をしてしまいました。

1995年、太平洋戦史館を設立した岩渕宣輝のもとに、西部ニューギニア方面で肉親を失った遺族…戦史館会員から、戦没地へ慰霊巡拝をしたいという強い希望が寄せられるようになり、岩渕は現地への先達を引き受けるようになりました。

旧戦場跡、草むらや開墾中の畑の土中から、倒れたままの姿で発見される日本兵の遺骸や遺留品が頻繁に発見されるようになります。生活ゴミの中や、村の生活道路の下からも。

何とか日本へ連れて帰りたい。しかし、遺骨帰還は、国家間の外交ルートで行われるため、民間人が勝手に戦没兵士の遺骨を連れて帰ることはできません。戦史館会員は何回も厚労省に通い、国に遺骨帰還を要請し続けました。

1999年、25年ぶりにようやく遺骨帰還再開

その後も足しげく現地に通い、少しずつ住民の理解も得られるようになるとビアク島の住民から遺骸発見の報告が次々と届くようになります。そのたびに、戦史館会員が自費で調査に向かい、厚労省に報告書を提出して遺骨帰還を申請するのですが、厚労省は「外務省が危険地域に指定しているので、安全が確認できないと職員を派遣できない」。外務省は「パプアは独立運動でごたごたしているので」「遺骨収集は我々の本来業務でなく、他の業務が忙しいので」の繰り返しでした。それでも、戦史館会員による戦跡調査は続きます。

現地写真

戦史館の会員が現地で遺骸を発見するたびに厚労省に報告し、遺骨帰還を要請し続けたことが実を結び、2009年12月までの10年間に、インドネシア方面の政府派遣遺骨帰還は8回実施され、875柱が帰還しました。

2005年6月、ジャヤプラ・スハジャ岬。同年3月の遺骨帰還で16柱が収容された場所からわずか100mほどの地点で、新たに約50体が発見されました。調査に加わった会員たちは白骨となった姿に対面し、誰もがことばを失いましたが、目をそらせることはできません。翌2006年1月、カユバトから116柱が収容され、遺骨帰還を果たしました。

2007年6月、ビアク島マンドゥ地区。地表の枯れ草を取り除くと、多数の遺骸と遺品が点在していました。遺骸1体を発見するたびに番号をふり、確認できたのは、51体でした。
写真は、15番目に発見された現場の遺骸。下あごの骨と「ヒラカワ」と彫られた飯ごうの蓋です。

現地写真現地写真

2007年11月、ビアク島マンドゥ地区の遺骸115柱が、日本へ帰還しました

厚労省委託  未送還遺骨情報収集事業による捜索

太平洋戦史館の会員による民間の調査がもはや限界となったとき、ようやく、厚労省によるインドネシア方面(西部ニューギニア)の調査事業が始まりました。現地に取り残されている戦没者の遺骸を捜索し、その情報を厚労省に報告する事業です。2010年から、この事業が終了する2017年3月まで、募集が無かった2011年を除き、戦史館は毎年4~5回の現地派遣を続け、その情報を厚労省に報告することで遺骨帰還に繋げてきました。

ジャヤプラ近郊プアイ村

現地写真現地写真
現地写真現地写真
現地写真

プアイ村の調査。センタニ湖の波打ち際の村で、急な斜面の細い道を下ると水上家屋が点在しています。家屋から10mも離れていない坂道の木の根元には日本兵の死骸が放置されていて、土手の土の中からは、人の頭蓋骨や手足の骨が突き出ているのです。

遺骸を収容する現場が住民の生活空間であることに、衝撃を受けた瞬間でした。遺骸がまとめて置かれていたことから、そこは終戦直後に死体を遺棄した場所だったと考えられます。

プアイではその後も、生活ゴミの堆積層の下から、日本兵の遺留品や遺骸が発見され、毎年捜索が続き、2014年までにプアイから295柱が帰還しています。

2014年3月  スピオリ市の小島 アイブラボンディ島から発見された遺骸

ビアク市に隣接するスピオリ市。スピオリ市の中でも離島での遺骸捜索は戦後初めてです

地面に掘られた大きな穴に投げ込まれ、コンクリートの塊で蓋をされた遺骸に出会いました。蓋をずらすと10体ほどの遺骸。2015年3月の再調査で、アイブラボンディ島は無人島であったこと。終戦直後に入植した人々が、砂浜に流れ着いた日本兵の遺骸を一か所に集めて古い井戸にいれて蓋をしたという証言が得られました。

現地写真現地写真現地写真

写真 : 左から①発掘前の古井戸 ②発掘直後 ③仮安置小屋

遺骸の発掘は、牧師、村長、部族長らが立ち会い、死者に祈りをささげ、島民総出で掘り出す作業に協力いただきました。大きな穴から救出された遺骸の頭蓋骨は、40体分(写真上中央 ②)。 収容された遺骸が散逸しないように、一か所に仮安置場所を作っていただきました(写真上右 ③)

無人島のムサキ島

2014年3月の調査で崖の下の波にえぐられた砂浜、土砂の中から約50体の遺骸と、遺留品、海軍支給のホーロー食器や日本の陶器の破片が発見されました。その後、嵐で半数が流出してしまったことから、2015年3月、緊急の収容と仮安置をお願いしました。

現地写真現地写真現地写真

2015年6月、浜辺近くの林の中からも次々と遺骸が発見されました。成長の早い熱帯の木の根に挟まれた大腿骨は身動きが取れない。その根をゆるめて全身を取り出したり、眼窩を突き抜ける木の根を切ったり。地主さんらの協力を得て、仮安置所を設置し、遺骸収容の準備をお願いしました。

現地写真現地写真現地写真
現地写真

ビアク島ベイシ

2012年9月、未送還情報収集事業の現地派遣。ビアク島の十数か所で新たな発見がありました。西洞窟から北5㎞ほどの林の中。地面に空いた穴の入り口は、一人がようやく入れるくらいですが、穴の中は10人ほどが隠れることができる大きさです。

地主さんの許可を得て、写真の梯子を作ってもらって中に降りていくと、そこは鍾乳洞の洞窟。おびただしい数の白骨と、飯ごうなどの遺留品が散乱していました。

現地写真現地写真現地写真

政府派遣遺骨帰還再開後 1568柱が故国へ

遺骨帰還インドネシア(西部ニューギニア方面)政府派遣団には、戦史館から多数の会員が参加し協力しています。これまで私費で未帰還兵捜索に参加したり、厚労省の未送還情報収集事業で現地調査をしてきた会員がその体験を活かし、遺骨帰還の派遣でも、現地で遺骸収容や洗骨など様々な作業をこなしたり、戦没者遺族の代表として現地の追悼式典に参加しています。

現地写真現地写真現地写真

写真 : 左から①収容した遺骸を一か所に ②鑑定ができるように準備 ③法医学者チームの遺体鑑定

  1. 未送還情報収集チームが個体別に収容した遺骸や、あるいは遺骨帰還派遣団が現場で収容した遺骸が一か所に集められます。
  2. 専門家が鑑定しやすいように、ブラシを使って骨に着いている汚れや細かい付着物をきれいに落とし、正確な鑑定ができるように準備します。
  3. インドネシアの法医学者チームの遺体鑑定は、日本兵(モンゴロイド)の成年男子と、それ以外(コーカソイド、ネグロイド)の骨を分類し、さらに、人体を構成する200種類の骨ごとに並べ替えて、それぞれの個体数を数えます。その結果から収容された柱数の合計が、算出されます。
現地写真現地写真現地写真

写真 : 左から④一か所に集めて荼毘に ⑤火葬後 ⑥現地追悼式

  1. 鑑定後、日本側に引き渡された遺骸は、一か所に集められて荼毘にふされます。
    薪を積み上げ、遺骸を並べ、インドネシアと日本の国旗を掲げて薪に火をつけ火葬します。
  2. 火葬後、地元の子供たちも手伝ってくれて骨を拾い、白木の箱に収めます。
  3. 現地追悼式。遺族の代表が追悼のことばを述べ、通訳さんがインドネシア語で、遺族の追悼の気持ちを参列者全員に伝えていきます。

2011年3月  ビアク島とプアイ村から216柱が帰還

2012年3月  ゼロ柱帰還

ビアク市長の

「今まで遺骨収容に協力してきたが、日本は何もしてくれなかった。オランダは水道施設を作ってくれたが…」

という言葉が象徴的でした。

2013年3月 サルミとプアイから134柱が帰還

前年のゼロ柱帰還という異常事態に、何としても遺骨帰還を再開させようと、官民一体になって取り組んだ結果が実を結びました。サルミからは、42年ぶりの再開です。

対日感情が悪化しているサルミ、緊迫の交渉が続く

サルミに到着後、市役所大講堂に直行すると、そこは住民参加型の公開討論会のような険しい空気。一通りの歓迎のあいさつの後、住民からは

「ヤマガタ(山形県のこと)はサルミに友好親善の碑を建てて援助を約束したのに、それを反故にした。日本兵の遺骨はサルミの財産なので博物館に展示すべきだ!」
「サルミで火葬しないならば遺骨は持ち出させない!」

など、次々と発言が続き、住民からの要求書も配られて、会場内が騒然となって緊迫した場面もありました。

政府派遣団の訪問では、戦後賠償問題やODA要求を突き付けられることがよくあります。

パプア州は戦後賠償もなく、それに代わるODAやジャイカの支援も届かない地域なので、地方で長年の不平不満がたまっているのは事実なのです。

しかし、今この場で、遺骨帰還交渉を、とん挫するわけにはいかない。警察署長が住民に協力を呼び掛けて、何とか、緊迫したその場をおさめていただきました。

現地写真

プアイ村では住民の理解が進み、協力が得られるまでに変化した

プアイ村はセンタニ湖畔の村で、生活道路と水上家屋をつなぐまさにその中に、遺棄された兵士たちの遺骸が散乱している衝撃の場所でしたが、プアイ村へ通い続け、住民と話し合い、協力を得ながら、遺骸の収容を進めてきました。

これまでパプア州で収容した遺骸は、全てビアク島へ運び、鑑定から追悼式までをビアク島で行っていましたが、2012年3月のビアク島ゼロ柱帰還となったことを機に、プアイ村で、鑑定、火葬、追悼式まで、全てを行う準備を進めてきました。これまで積み上げてきた友好関係を軸に、村人総出で協力してもらえるようになったのです。プアイ村総出の協力に対して、厚労省から村長へ、謝礼金という形で支払いが行われ、村の収入となりました。現金収入の少ない村にとって、大切な財源です。

現地写真現地写真

2013年11月  ビアクから282柱帰還

「日本兵の遺骸収容と遺骨帰還に関する協力覚書」が締結され、前年3月に帰還できなかった遺骨もいっしょに、1年ぶりに帰還できたのでした。

2014年10月  プアイから61柱帰還

外務省の無償支援給食プロジェクトがプアイでスタートしたのが、遺骨帰還の追い風になりました。今まで日本からの支援が全く届かなかった地域に、小規模であっても現地の人の暮らしに直接役立つ支援が生まれたことで、遺骨帰還派遣団への受け入れも、人々の理解や協力も変化しました。

2015年10月  スピオリ島方面からゼロ柱帰還。2度目のゼロ柱とは!

ゼロ柱帰還となった原因は、ジャカルタの日本大使館がスピオリ市へ、口上書の挨拶や公文書による協力要請文を出すべきところ、間違って隣のビアク市の担当者に出していたというお粗末な理由によります。11月には両国の遺骨帰還に関する協力覚書も失効してしまい、その後、新たな協力覚書の締結に向けて、外務省は今もインドネシアと交渉を継続中とか。

かつて、スピオリ市はビアク市の一部でしたが、インドネシア中央政府がパプア独立運動対策として自治権を与えたことで、10年以上前にビアク市から独立し全く別の自治体となっています。お隣どうしの付き合いはなにかと難しいようです。

スピオリ島地図 クリックで拡大

戦争が終わって70数年
ニューギニアの地で命を奪われ、その地にとどめ置かれ、忘れ去られる人々がいる
死者は自分の口で居場所を語れない。だから私たちが捜しにいく
死者は自分の足でふるさとへ帰れない。だから私たちが迎えにいく
まだ百万人以上の戦死者が、迎えに来てもらうのをまっている
死者は自分の口で無念を語れない。だから私たちが無念の声を聴きとって伝えたい
私たちは決して忘れない。無念の声を次の世代に伝えたい
どうか一緒に思いを巡らしてほしい

おかえりなさい、ふるさとへ

団員が連れて帰った戦没者の遺骨は、団員の手から厚労省職員へ引き渡されます。

インドネシア戦没者遺骨収集応急派遣団(西部ニューギニア方面)の帰国は、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、音楽隊の演奏で迎えられることはめったにありません。多くは、空港や厚労省の会議室での出迎えです。応急派遣だから(年間計画に無いので、年間予算措置もなく、要請に応じたものなので、正式な遺骨収集ではない)という理由で、成田空港や厚労省の会議室でこっそり、段ボール箱の受け渡しが行われていました。しかし会員の中から、

「ようやく帰還された方々に、この出迎えはひどすぎる。他の地域のように、千鳥ヶ淵で出迎えてほしい」

という要望が度々出されていました。

2007年11月の帰還では、他の地域の帰国日程と調整することで、西部ニューギニア方面も千鳥ヶ淵出迎えとなりました。

写真左 : 厚労省会議室で遺骨引渡式     写真右 : 千代田区国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑での遺骨引渡式

千鳥ヶ淵戦没者墓苑 写真帰国時写真

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、太平洋戦争中に海外で亡くなった戦没者のうち、身元不明の約34万の遺骨を納めた“国立墓地”です。毎年5月の最終月曜日に、1年間に海外で収集され身元がわからない遺骨をまとめて納骨することになっていて、環境省、千代田区、厚労省、三者がそれぞれの立場を主張しています。千鳥ヶ淵戦没者墓苑を管轄している環境省は、墓地公園と位置づけていますが、墓苑が存在する千代田区は、個別埋葬をしていないので、墓埋法で規定するところの墓地としては認めていません。法的には「倉庫」や「保管庫」に相当すると言っています。

この千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、前年度に海外から帰還した遺骨を納骨する拝礼式は、厚労省主催で行われていますが、六角堂と呼ばれる納骨堂が満杯になり、更に地下に増設した施設も満杯に。そこで分量を圧縮するために、遺骨はさらに高熱で焼かれて圧縮されてから納骨されるのだそうです。これは「遺体損壊」にも相当する犯罪ではないでしょうか?

日本国内における戦没者追悼の現実と、ビアク島西洞窟など海外に置いてきた「戦没日本人之碑」の実態、その対極として、海外では戦没者の追悼をどのように行っているのか、この続きを読んで、ぜひ追悼のあり方を考えてください。

インドネシア共和国パプア州ビアク島西洞窟「戦没日本人之碑」

「戦没日本人之碑」(写真下左) は、連合軍1944年の総攻撃の最後の砦となった西洞窟入り口近くに、1956年に持ち込まれました。大成丸で遺骨を収集し、ビアクで集められた185柱はここで荼毘にふされ、その跡地に「戦没日本人之碑」が置かれました。碑の文字は吉田茂元首相の揮ごうによるものです。碑をおいたとき、この碑のまわりや柵の地面の下を、捜索しなかったのでしょうか、柵の脇を少し掘ったり、日本軍塹壕跡の地面を削るだけで、遺骸や遺留品が見つかっています。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑 写真帰国時写真

同じビアク島に、「第二次世界大戦慰霊碑」(写真上右 1994年3月竣工 撮影2011年3月)もあります。この慰霊碑の壁の裏側には長い洞窟がありますが、その奥には閉じ込められたままの遺骸が残っていると地主さんや軍関係者が語っています。

戦没者への国家儀礼 ─ 外国ではどのように?

カリバタ英雄墓地 写真
インドネシア共和国 南ジャカルタ カリバタ英雄墓地
Taman Makam Pahlawan Kalibata

インドネシア独立戦争中に戦死した将兵が、個別に埋葬されています。インドネシア独立戦争に参加した日本人(インドネシア残留日本兵)のうち、戦死が確認され、遺体が収容された27人の日本人戦没者も、ここに埋葬されています。

敷地は埋葬者の信仰別に区分されており、また、氏名不詳の戦没者が眠る無名戦士の墓もあります。

タインコット軍人墓地 写真
ベルギー イープル タインコット軍人墓地
Tyne Cot Cemetery

第一次世界大戦時にイギリス軍の要塞があった跡地周辺が、博物館と墓地になっています。

イギリス連邦軍人墓地委員会管理下で世界最大の墓地で、現在、第一次世界大戦からの11,900柱の、イギリス・オーストラリア・ニュージーランド・カナダの兵士が、外国の戦没地で国別に、さらに個別に埋葬されています。

ボマナ墓地 写真
パプアニューギニア 首都ポートモレスビー ボマナ墓地
Bomana War Cemetery

英連邦の軍人墓地はいずれも、このように整備され、広々として明るく、管理が行き届いています。無名戦士やオランダ市民1人、計699柱を含む、3,842柱が埋葬されています。また、二次大戦に従軍した600人以上のインド人兵士もまた、ここに眠っています。

横浜市保土ヶ谷区狩場 英連邦戦没者墓苑 (追悼式)
Yokohama War Cemetery

日本国内と、日本の近海で戦没した英連邦の兵士が個別に埋葬されています。墓地内部は、ラバウルやポートモレスビー、ラエの英連邦墓地と同様、植栽が豊かで広々しています。

11月11日を戦没者追悼の日と定め、例年この日に近い日曜日に追悼行事をしています。

追悼式

写真下左は、前列左から、プロテスタント・カソリック・ヒンズー教・イスラム教・仏教・ユダヤ教。英連邦の全6宗教の司祭者らが一同に会して、それぞれの宗教のスタイルで短い祈りを捧げ、それぞれの信者であった戦没者を追悼します。死後もその人の宗教で弔うということは、人間の尊厳にとってとても大切なことではないでしょうか。

追悼式に参列したのは、写真下右のように、英国・インド・オーストラリア・ニュージーランド・パプアニューギニア・マレーシア・カナダなど、英連邦の国々の大使や勲章をつけた軍人、宗教者ら。

英連邦戦没者墓苑 写真英連邦戦没者墓苑s 写真
ランゲマークドイツ軍兵士の墓 写真
ベルギー ランゲマーク  ドイツ軍兵士の墓
Langemark German war cemetery

英連邦の墓地が立派なのは、戦勝国だったからでしょうか?

第一次世界大戦敗戦国の、ドイツ軍兵士の墓を訪ねました。大きな木に囲まれ、いくつもの彫刻に見守られた広い空間の中に、ひっそり静かに眠っているような空間がありました。地面に埋め込まれた墓石1つ1つには、他国の地で命を落としたドイツ軍兵士20人分の名前と戦没日が刻まれています。

日本の戦没者慰霊追悼の現状を、思いおこしてください。海外の戦場で倒れた遺骸は放置されたまま、忘れ去られようとしています。70数年を経て、荼毘にふされ遺骨となってようやく帰還できた兵士たちは、再度、高熱で焼かれ、圧縮されて形を失い、地下のコンクリート遺灰倉庫に閉じ込められてしまうのです。


戦没者一人ひとりの宗教で弔い、一人ひとりを個別に埋葬する。その地で祈り、追悼し、忘るまじ再び繰り返すまいと誓う場所、戦没地 … その場所で安らかに過ごせないものでしょうか。